ARTICLEワイン記事和訳 本記事は著者であるジャンシス・ロビンソンMWから承諾を得て、
Jancisrobinson.com 掲載の無料記事を翻訳したものです。

094.jpgこの種の記事は私が最も苦手とするものである。私にとって、アンヌ・クロード(Anne-Claude)ほど強く、影響力のある女性が50代でこの世を去ることは考えられないことである。なのに昨日の朝、彼女の家族である夫のクリスチャン、娘のマリーヌ(Marine)とシャーロット(Charlotte)は病院のベッドを囲み彼女に別れを告げたのだ。

アンヌ・クロードは世界的に有名なドメーヌ・ルフレーヴ、ピュリニー・モンラッシェの著名なワイン生産者の経営を1990年から担ってきた。最初の数年はいとこであるオリヴィエ・ルフレーヴと二人三脚で、1993年に父のヴァンサンが亡くなってからは単独のマネージャーとして手腕をふるった。

彼女に要求されたのはワイン作りのスキルだけではない。一族のそれぞれがドメーヌ内で利害関係にあったため、人としてのスキルも必要だった。ドメーヌのウェブサイトに掲載されている理事の一覧だけからもそれを伺い知ることができる。そこにはマリア・クルース・ド・シューマン(アンヌ・ルフレーヴの姪;Maria Cruz de Suremain)、マリリ・ド・ラ・モランディエ(ジョ・ルフレーヴの娘;Marilys de La Morandière)、ベルナール・ノイユ(ジョセフ・レジス・ルフレーヴとヴァンサン・ルフレーヴの娘であるジャンヌ・ド・ヌエの息子;Bernard de Noüe)などが名を連ねている。私はピュリニーで彼女と一族様々なメンバーが共にいるのを何度も見かけたが、アンヌ・クロードほど現場で汗を流していた人物はいなかったように思う。彼女は偉大な実践的革新者だった。

ブルゴーニュのもう一人の強い女性、ラルー・ビーズ・ルロワ(今週末で彼女はこの仕事で60周年を迎える)と並んで、アンヌ・クロード・ルフレーヴは今では広く普及しているビオデナミの栽培法をブルゴーニュに広めた人物だ。しかしラルーとは違い、彼女は常に他との協力や熱心な交流に重きを置いていた。少しずつ、彼女はドメーヌ・ルフレーヴを変えてきたが、中でも目を引いたのは村の丘の上にある彼女の良く手入れされた畑に馬を導入したことだ。

エコとサステイナビリティの熱心な信奉者である彼女はピュリニーに建築家の娘が低投入を意識して特別にデザインした家に住んでいた。また、彼女の信念を多くの人に教えるため村にワイン・スクールも設立した。ちなみに、ここまでを書くのに私は何時間も費やしている。この記事の意味することを認めたくないからだ。

私の知っている彼女は勇敢で力強く、自由な精神の持ち主だ。その印象は1980年代のある週末、グリーンイーグルで私が主催したワインを楽しむ週末に彼女を招く前から数十年変わらない。この会にはジャン・ミッシェル・カーズ、ロバート・ドルーアン、アンジェロ・ガヤ、ジェラール・ジャブレ、アンリ・クリュッグ、ドミニク・ラフォン、アレクサンドル・ド・リュル・サリュース、ブルーノ・プラッツ、若き日のポール・ポンタリエ、そして熟練のアミアス・シミントン(Amyas Symington)が参加していた。

アンヌ・クロードはしばらく体調がすぐれなかったが、ドメーヌを任されているのは信頼できる人々であるのは確かだ。特にメートル・ド・シェのエリック・レミーは2008年にピレール・モレの後を後継となった人物だ。しかし、彼女なしではドメーヌ・ルフレーヴは、いやブルゴーニュそのものが、これまでと同じではなくなってしまうだろう。

(原文)