ARTICLEワイン記事和訳 本記事は著者であるジャンシス・ロビンソンMWから承諾を得て、
Jancisrobinson.com 掲載の無料記事を翻訳したものです。

134.jpg2015年10月1日 昨晩LVMHはクラウディ・ベイ設立30周年を祝い、ロンドンのサマーセットにあるスプリングで回顧的なテイスティングを伴うディナーを開催した。ワイン・メーカーであるティム・ヒース(Tim Heath)は10年前クラウディ・ベイに着任したが、その前は以下に紹介するデイヴィッド・ホーネン(David Hohnen)に師事していた。左の写真は、現在彼自身の事業であるマックヘンリー・ホーネン(McHenry Hohnen)のウェブサイトのものだ。その内幕を知りすぎるほど知っているだろうティムは、その日シンガポール、香港、ベルギー、フランス(少なくとも4名の代表者がいた)から集まった主要なワイン・ライター達を前に、クラウディ・ベイの秘密を語った。彼はクラウディ・ベイを早い段階で他と差別化することができたのは栽培家と、オックスフォード・コンパニオン・トゥ・ワインの栽培部門編集者でもあるリチャード・スマート博士の力によるのだと強く信じている。「初期のワインは香りは良かったのですが、キャノピー・マネージメントを行ってそこに果実の香りが加わるようにしたのはスマート博士なんです。」我々は2015、2010、1998、1992、1987のクラウディ・ベイ・ソーヴィニヨン・ブランをテイスティングした。その中では1987が最高のオールドヴィンテージだったが、私から見てそれが熟成に値するワインであるとは思えなかった。2015は良さようではあったが。昨晩のホストはジャン・ギヨーム・プラッツ(Jean-Guillaume Prats)のはずだったのだが、彼はその頃フランスへ帰る救急車の中だった。ロンドンでリアルテニスのプレイ中に膝をひどく痛めたためだ。早く良くなってね、J-GP!

2007年10月5日 これはフィナンシャル・タイムズに掲載した記事のロング・バージョンである。

先週の木曜夜、レン・エヴァンス・アワードによるオーストラリア・ワイン業界のリーダーシップ・アワードがデイヴィッド・ホーネンに贈られた。彼は往事のレン・エヴァンスと同じぐらい無口な男だ。ホーネンはエヴァンスとは二度しか会っていない。これはオーストラリアのワイン界のしがらみにとらわれず、彼が上手くやっていた証だろう。事実、彼はオーストラリア大陸の西の果て、シドニーから飛行機で4時間、そこから少なくとも10時間の長旅の末辿り着く場所に住み、その地を有名にしたのだから。

オーストラリアの外では、デイヴィッド・ホーネンはクラウディ・ベイとマールボロの核とも言えるその愛すべきソーヴィニヨン・ブランを生み出した男として最もよく知られている。マールボロはニュージーランドの南島の北端に位置し、この20年で羊の国からワインの国へと変貌を遂げた。マーガレット・リヴァーにある彼のワイナリー、ケープ・メンテルを訪れたニュージーランド人が持ち込んだソーヴィニヨンの品質に刺激され、彼は自分の目で確認しに行くことを決めた。1984年、多くのソーヴィニヨン・ブランをテイスティングした彼は最高のソーヴィニヨンは全てマールボロで作られていることを悟った。彼は以来クラウディ・ベイを運営してくれたケビン・ジャッド(Kevin Judd)と出会い(彼はホーネンより更に寡黙だ。彼らは唸り声でコミュニケーションを取っているに違いない)、その後はご存知の通りだ(ジャッドは現在自身のブランド、グレイワッキーを所有する)。陰りのあるラベルに描かれた連続する灰色の山脈はブレナム行きの飛行機の窓から見た景色にヒントを得たそうだ。

だが、ホーネンは商売人というだけではなかった。キャリアの早いうちから彼はオーストラリアでは有名なジミー・ワトソン・トロフィーを若い赤ワイン部門の最優秀賞を一度ならず連続して二度も1982年と1983年にカベルネで獲得している。彼の父は鉱山技師で家族を連れてあちこちを渡り歩いたが(二男であるデイヴィッドは1949年にニューギニアで生まれた)、西オーストラリアのパースに落ち着いた。ニューカレドニア時代に彼の家族はフランスの文化と共にワインに触れることとなった。パースに戻るとホーネンの父は近所に住む医師トム・カリティ(Tom Cullity)が持ってくるワインにくぎ付けとなった。それはトウが1967年にパースから3時間南下したマーガレット・リヴァーのワインと無縁だった小さな一角に植えたヴァス・フェリックスと呼ぶブドウ畑から作られたワインだった。1970年までにホーネン家は今や世界中で有名なこのワイン産地でモス・ウッドのピル・パネル(Bill Pannell)医師に次いでブドウを植えた3軒目の家族となった。彼らはそれをマーガレット・リヴァーの多くのサーファーの間で有名な小さな岬にちなんでケープ・メンテルと呼び、そのサーファーたちの多くがホーネンの元で働いた。

デイヴィッドは英語での教育を受けたかったが、当時オーストラリアで唯一のワイン・スクールだったローズワーシー(Roseworthy)の視野の狭いやり方には興味が持てなかった(ローズワーシーはその後世界中のワイン学習者のメッカへと進化を遂げた)。そこでカリフォルニアで可能性のある二つのワイン講座に申し込んだが返信をくれたのはフレスノだけだった。そこで彼はすぐに一般的な講義と核となる講義があることに気付いた。「一般的な講義は一つも取りませんでした。アメリカの歴史や文化、バスケット編みなんて必要ありませんでしたから。だから厳密には私は卒業していません。でも2年間でワイン作りに関する講義は全て網羅しました。」

彼の兄マークが先にワイナリーを経営していたが、ヴィクトリア州の荒野でタルターニ・ヴィンヤード(Taltarni vineyard)の植え付けの経験を積んだのち、デイヴィッドは1976年、一家の最初の商業的なヴィンテージに間に合った。当時カベルネ・ソーヴィニヨンが大流行していた。ワイン界全体にフランスびいきが蔓延し、ホーネン家はわずかでもシラーズを植えるという点で周囲の偏見と闘わなくてはならなかった。ただ、ホーネンが最も誇りに思っているのは、ケープ・メンテルによってマーガレット・リヴァーが世界水運のカベルネを生み出すことができると証明した点だ。

「シラーズは当時労働者階級のワインだとみなされていたんです」彼は鼻を鳴らした。「だから最初からハーミタージュとして売らなくてはならなかったんです。」彼らはまた、カリフォルニア以外で初めてジンファンデルを植え、国際市場に打って出た。素晴らしく官能的なワインはそのきまぐれな歩みを確実に進めた。

自画自賛するのは質素なホーネンのスタイルではない。ロンドンで先月彼に会った際、彼は間近に迫った賞にやや当惑していたものの客観的な視点でこう述べた。「あちこちを回れば回るほど、ブランドとしてのケープ・メンテルがマーガレット・リヴァーでのリーダーシップを発揮していることがわかります。ルーウィン、モス・ウッド、カレン。彼らはみな偉大なワインを生み出しています。でもケープ・メンテルはシラーズがその足がかりになることを立証したです。それでジミー・ワトソンはマーガレット・リヴァーに二度も信頼の証を与えてくれたんでしょう。」

「それからかなり初期に行ったブレンドもとても重要でした。ケープ・メンテルはセミヨンとソーヴィニヨン・ブランのブレンドを初めて行い、今ではニュージーランドのソーヴィニヨン・ブランに次いでオーストラリアで二番目に強い白ワインのカテゴリーを築き上げました。さらに、100%カベルネでは品種として頭打ちになると最初に気付いたのもケープ・メンテルです。1990年代までに、カベルネは難しくて玄人向けの品種だとみなされていました。だから売り上げを伸ばすにはカベルネとメルロのブレンドでなくてはならなかったのです。ケープ・メンテルはこのブレンドの人気を獲得した初めてのメーカーです。」

私はこの初開催の賞がデイヴィッド・ホーネンのような地味な人物に与えられるとがにわかには理解できなかった。彼はオーストラリアの主要なワイン・ショーで審査をしたことは一度もなかったし、ワインについて記事を書いたことも尊大に語ったこともないのだ。彼がケープ・メンテルとクラウディ・ベイ両方で築き上げたチームの忠誠心を一手に集める人物だと知らなければ、チーム・プレイとは無縁の人物だと思うに違いない。だが彼がワイン作り、マーケティング、販売という全ての文やで世界中で成し遂げたことを考えると、今回の賞、グルメ・トラベラー・ワイン・マガジンによって始められたこの賞の審査員の賢明さを改めて認識せざるを得ない。

1990年の大成功はクラウディ・ベイとケープ・メンテル両方を善意ある「アンクル・ジョー」、当時ヴーヴ・クリコを所有していたジョセフ・アンリオに売却したことであり、ホーネンはこれまで通りのことをより大きな予算で行えるようになった。残念なことは後にクリコを獲得したLVMHが2003年、ホーネンが自身の家族経営のワイナリー、マックホーネン・ヘンリー(McHohnen Henry)を義理の兄と共に始めるためにケープ・メンテルとクラウディ・ベイ両方を辞める結果をもたらしたことだ。

マックヘンリー・ホーネン(McHenry Hohnen)のワイン・メーカーはデイヴィッドの娘フレヤ(Freya)は父親そっくりのしっかりした人物で、自分の人生を不安定なワインの世界に捧げるとすぐ決めるような人物ではなかった。彼女の一番の興味は持続型農業(これがエノロジストの道へと彼女を導き、父親を安心させた)と仏教だった。「フレヤが決心しないと、物事は前に進みませんでした。私は彼女に道を譲るため、他の場所に農地を買いました。彼女はまだ迷っていて、あまり深く関わりたくない部分もあるようですが、今ではワイン・ビジネスを何か大きなものの一部だとみなすことができたようです。彼女は偉大なワイン・メーカーですし、農業にも深く関わっています。有機栽培をやるつもりはありませんが、おじいちゃん農法と呼んでいます。DDTのなかった二世代前のようにやっているんです。」

デイヴィッド・ホーネン自身の農園は素晴らしく牧歌的(この言葉が適切なら)なマーガレット・ヴァーの森、ブドウとウィルトシャー羊、妻の馬たちと共存する大自然の中で彼は自作の弾丸(作りの趣味)をやめることにした。

ホーネンの魔法のじゅうたんにはただ一つ、欠点があった。先日ロンドンでそれに言及したのは彼自身だった。「ブレットについて話すべきだと思うんです。」やや疲れて、気が進まない感じで彼は扱いにくい劣化酵母について話した。いつの間にか1990年代の
ケープ・メンテル・ワイナリーに入り込んだ特に1998と1999に不快な馬小屋臭を与えることとなった。「もしボトリングの際にワインに含まれていなければ硫黄と濾過で瓶内での増殖は抑えられると確信していたんです、間違っていた、間違っていた、間違っていた。」彼は厳しい表情でつぶやいた。

この試練を別にすれば、彼のキャリアは総合すれば誰もが正しかった、正しかった、正しかった、と総括するだろう。

(原文)