世界制覇を争うソムリエの興味深い戦いに関するこの記事のショート・バージョンはフィナンシャル・タイムズにも掲載されている。
若いデンマーク人女性がイタリアのロゼ・スパークリングをマグナム・ボトルから16客のグラスに均等に注いだことに心を掴まれた、とあなたが言ったら私はそれを信じないだろう。だが2週間前にアントワープで開催された世界ベスト・ソムリエ・チャンピオンシップは上質なスリラーと同じぐらい、私を惹きつけて離さなかった。
そんなこと、どうでもいいでしょう。私は決勝進出者があり得ない課題を突き付けられるのを見るたびに心の中でつぶやいていた。だがもちろん、最終的な勝者となる人物にとってはどうでもよくないのだ。その地位を財産に変えることができ、ソムリエナイフをプロとして扱うすべての人から崇拝される人生を手にするのだから。
この特別に難解なコンクールは現在3年に1度開催され、この国際的なイベントを開催する権利を得るために各地のソムリエ協会がしのぎを削る。アントワープのエリザベス・センターにある3層のコンサート・ホールの座席を埋めた人々の数からもわかるように、膨大な人数を集めることになるイベントだ。国際ソムリエ協会(Association de la Sommellerie Internationale;名称はフランス語だが、現在このイベント自体は英語が公用語だ)によってあらゆる条件で審査され、競合相手だったボルドーからこの2019年の開催権をもぎ取ったベルギーのソムリエ協会は意気揚々としていた。
この勝ち抜き戦は月曜に66名の挑戦者によって始まった。彼らは各国のソムリエであり、まずブラインド・テイスティングと論述試験が課された。ヨーロッパやアメリカ大陸のあらゆる有名な国々の代表もいたが、例えばアイスランド、カザフスタン(ダヤナ・ナシロヴァ(Dayana Nassyrova )によるとこの国には80名のプロのソムリエがいる)、アルバニア、モロッコ、モーリシャス、ヴェネズエラ、ワインを飲む習慣のあるほとんどのアジアの国々、そして現在のヨーロッパ・チャンピオンであるライモンズ・トムソンに勇気づけられたバルト諸国からの多くの選手もいた。彼はこの国際的な試験で最優力候補と目されていた。
水曜までに66名が19名のセミ・ファイナリストに絞り込まれ、彼らは休息日とされる翌木曜日に一日を落ち着かずに過ごすこととなる。この日は運営側がかたずをのんで多くの人々が見守るステージ上で行われる決勝戦に向けてすべてのワインと準備を必死になって整えるための日だ(下の写真はまだホールに人が入り始めたばかりの時点で撮影している。出場者に割り当てられた最前列は白と黒の衣装で埋め尽くされた。)
金曜日、勝者を決める最初の過程で歴代の優勝者、すなわちスーパー・ヒューマンであり、世界の誇りとされる15名のソムリエたちが紹介され、81歳のアルマン・メルコニアンを含め、イギリスの勝者1名を除く全員がステージ上に並んだ。仲間のソムリエたちから絶大な人気を誇るジェラール・バッセはフランス生まれだが、イギリスで過酷なマスター・オブ・ワインとマスター・ソムリエの両方に合格し、ホテル・デュ・ヴァン・グループを共同で立ち上げるなど長く栄誉あるキャリアを経て、2010年のチリ大会にて6回目の挑戦でようやく世界最優秀ソムリエの名誉を掴んだ人物だ。その時彼は肩にユニオン・ジャックを羽織ることを選んだ。食道がんとの1年に及ぶ戦いの末、年内には出版されるであろう手記を書き終え、彼は1月に61歳でこの世を去った。会場で彼を称賛する映像が流れたのも驚くことではなかったし、未亡人であるニーナと息子のロミーは壇上で彼について前向きに語った(私とニックがアントワープでの審査員として招待されるよう取り計らったのも間違いなくジェラールだ)。
そして白と黒の衣装に包まれた全てのセミ・ファイナリストが、壇上に呼ばれた。一人ずつ、決勝進出に至らなかった選手が屈辱的にもステージから降ろされていく。66名のうち女性はたった7名だったがそのうち3名が19名のセミ・ファイナリストに残っていた。最後に男性2名、女性2名が残り、アイルランドで優勝候補の一人と目されていたジュリー・デュプイ・ヤングが駒を進めるものと思われた。だがそうではなかった。3名のファイナリストはヨーロッパ・チャンピオンで38歳のラトビア人、デンマークの26歳のニーナ・ホジガード・ジェンセン、そしてドイツ代表だが現在はチューリッヒにあるホテル・ボー・オー・ラックのレストラン、パヴィヨンで働く27歳のマルク・アルメルトだった。写真は決勝の結果を待っている二人と、左はトムソンだ。
自分たちの成し遂げたことに驚きながらも、彼らは決勝で課される7つの試練に立ち向かう順番を決めるためのくじ引きを行った。若いオランダの女性が一番手となり、残りの男性たちは決勝の内容が全く分からないよう別室へ誘導された。決勝の試練はまさに過酷なものだった。私が審査を依頼された3つの設問の一つは、彼らに世界で最も不明瞭な4つのワイン、アンフォラで熟成させ、スキンコンタクトを行ったイストリアのマルヴァジア、アリカンテ・ブーシェ主体のポルトガルのモウシャン、全員がシェリーと回答した、フロールで熟成させたジュラのシャトー・シャロン、そしてあきれたことに、30年熟成させた甘口のドイツのピノ・ノワールのベーレンアウスレーゼを特定することであり、それに合う料理を提案することだった。しかも3分で。
2001年と2007年の勝者でもある審査員から課された別の試練は水のように無色透明な10種の「飲み物」を特定することだった。中にはジンもあったが、ブドウを使ってフランスで作られたものだった。コメを使って作られた日本のものは日本酒ではなく蒸留酒だったし、アニスを用いたスピリッツはレバノンのものだ。そんなものが連続するのだ。
過去の勝者の数名とASIの職員が客の役割を演じていた。ある課題ではソーテルヌを提供するのだが、冷却用のワインクーラーに入っているのはシャトー・ディケムの作る辛口(厳密にはソーテルヌではなくボルドーだ)と南アフリカの甘口ワインであるヴァン・ド・コンスタンスしかない。この状況を最もうまく切り抜けた選手に点数が入る仕組みだ。甘口ワインに氷を入れてほしいというリクエストにどう答えるのかなども審査されている(同僚の審査員によると、正解は客に自身で手元の氷を入れてもらうことだそうだ)。ラトビアの選手は迷い続けて失点した。
勝者の発表とは別に、劇的なドラマが起きた。若いデンマーク人女性選手がデカンタージュの課題に取り組むため8客のグラスを運んでいるところへ、調子の悪い音響を補うためにステージ管理者がマイクを持って飛び出したのだ。結果は予測できるだろう(訳注;スタッフと選手がぶつかりそうになり、避けようとした選手がグラスを落として破損)。塵取りとほうきを持った運営スタッフが走り回っている間にこの課題の最初のパートのやり直しが決定した。このデンマークのニーナが冷静を保つことができたのは驚きだった。彼女にはきっと自動操縦装置がついているに違いない。
最後の選手、チューリッヒのマークは私には14歳ぐらいにしか見えなかったが、彼もまた快活で効率的に動いていた。驚くべきことに、彼はこの究極のプレッシャー下の課題でスペインの著名なヴェガ・シシリアの、希少なブレンドであるウニコ・レゼルバ・エスペシアルをテイスティングできることに興奮していると告白し、聴衆の笑いを誘うことすらしてのけたのだ。聞いたところによると我々のように特定の役割をもって壇上にいる審査員のほかに観覧席にも審査員が配置されているそうだ。彼らの重要な役割は選手の全体的な振る舞いと言語能力を計ることだ。当然ながらすべての選手は最低でも2か国語を流暢に話す必要があり、これがアメリカの選手数が少ない理由でもあるだろう。
一つ言っておきたいのは、最後に3人の選手が同時に16客のグラスにスパークリングを同時に注ぐよう求められた時点でも、私はどの選手が優勝するのかまったく予想できなかったということだ。私は女性同士ということもあってデンマークの選手を応援していた。だがドイツの選手は全員が見えるホワイトボード上で(またしても)不明瞭な様々なワインにブドウ品種を当てはめる問題で間違い、失点をしたものの、この上なく真摯で魅力的だった。
聴衆の中には小さな国旗(とくに日本とスウェーデン)がはためいていた。そして結果を待つ間、ラトビアとドイツのソムリエ協会のトップは彼らの国旗を羽のようになびかせていた。
ついに(アルゼンチン人の)ASI会長がアントワープのやや戸惑いを見せている名士たちと共に壇上に現れ、3位がラトビアに、そして(ここでドラムロールだ)優勝が若きマルク・アルメルトであることを告げた。彼はこれまでの勝者の中で2人目のドイツ人だ。彼の姿勢は、この戦いが非常に接戦だったことを物語るように非常に謙虚だったが、世界チャンピオンとしてのふるまいを身に着けるようになるのも時間の問題だろう。
下の写真は彼がヴェガ・シシリアをデカンタージュする際のもので、過去の勝者であるフィリップ・ホウル・ブラックが鋭く見守っている。
世界最優秀ソムリエ~過去の勝者
2016 Jon Arvid Rosengren of Sweden, メンドーサ開催
2013 Paulo Basso of Switzerland, 東京開催
2010 Gerard Basset of the UK, チリ・サンチアゴ開催
2007 Andreas Larsson of Sweden, ロードス開催
2004 Enrico Bernardo of Italy, アテネ開催
2000 Olivier Poussier of France, モントリオール開催
1998 Markus Del Monego of Germany, ウィーン開催
1995 Shinya Tasaki of Japan, 東京開催
1992 Philippe Faure Brac of France, リオデジャネイロ開催
1989 Serge Dubs of France, パリ開催
1986 Jean-Claude Jambon of France,ヴェニス開催
1983 Jean-Luc Pouteau of France, ブリュッセル開催
1978 Giuseppe Vaccarini of Italy, エストリル開催
1971 Piero Sattanino of Italy, ミラノ開催
1969 Armand Melkonian of France, ブリュッセル開催
(原文)