ARTICLEワイン記事和訳 本記事は著者であるジャンシス・ロビンソンMWから承諾を得て、
Jancisrobinson.com 掲載の無料記事を翻訳したものです。

コート・シャロネーズが日の目を見る日が来たのかもしれない。この記事の別バージョンはフィナンシャル・タイムズにも掲載されている。上のモンタニの写真はジョン・ワイアンド提供(Montagny pictured above by Jon Wyand)。

ロンドンでは伝統的に、1月の第2週はブルゴーニュ週間だが、今年はオミクロン株のせいで大きく縮小されてしまった。当初予定されていた2020ヴィンテージのテイスティングで提供されるはずだったワインの多くはコート・ドールのものだ。石灰質とマール土壌、東向きの「黄金の丘」から生み出される、ブルゴーニュで最も敬われ、最も高値のつくワインだ。

ただ、地図を詳細に見てみると、このコート・ドールの南端はそのままコート・シャロネーズの北部につながっていることがわかる。コート・シャロネーズはその東部にあって地域の中心でもある街、シャロン・シュル・ソーヌの名にちなんでつけられた名称だ。コート・シャロネーズのワイン産地は主要な村であるブーズロン、リュリー、メルキュレ、ジヴリ、モンタニィを取り囲むように散らばっている。そこから造られるワインはコート・ドールよりもはるかに価格は低いが、土壌と標高は類似していて、多くの畑はコート・ドールに近い地勢のおかげで上りくる太陽の光を享受することができる。

ではなぜコート・シャロネーズのワインは明らかに劣っていると考えられてきたのだろうか。その理由は地理的なものよりも歴史的、政治的色合いが強い。ナポレオンはフランス革命後、注意深く分割された地区にそれぞれ強い個性を与え、焦点を当てることに注力していた。コート・ドール地区はワイン生産を焦点とした一方、そのすぐ南にあり、2つの著名な川の名前にちなんだソーヌ・エ・ローワル地区は農産、特にシャロレ牛と、工業に注力することとしたのだ。ワイン産地の西にあるモンソー・レ・ミーヌはその名が表す通り(訳注:ミーヌ=Minesは鉱山の意)19世紀から20世紀初頭にかけて石炭の重要な供給源となった炭鉱業の中心地だ。またモンソーの北に位置するル・クルーゾは鉄鉱石に恵まれていて、産業革命の時代には大規模な工場が相次いで建設された地だ。

だが、全ては変わった。19世紀終盤に襲ったフィロキセラのために(地球上のすべてのブドウ畑同様)コート・シャロネーズの畑はひどい状態に陥った。そして第一次世界大戦で戦い、なんとか帰還した人々はブドウ畑よりも工場での仕事に流れていった(一方コート・ドールには工業と呼べるものがほぼ存在しなかったため、ブドウ栽培に影響が出ることはほとんどなかった)。その結果、斜面にあるために作業が最も困難な最高のブドウ畑は打ち捨てられ、肥沃な平地が好まれた。量が質よりも優先され、コート・シャロネーズは地元の工場労働者のための安価ながぶ飲みワインとして知られるようになったのだ。

第二次世界大戦もまた、ブドウ栽培者にとって厳しい状況をもたらした。第2版が出版されたばかりの秀作、ジャスパー・モリスMW著のインサイド・バーガンディによれば、ヴィシー・フランスと占領地の間の境界線がこの地の中心部に設けられた。そのため、占領地にある自宅から境界線を越えて自分の庭を見に行った一般女性が少なくとも一人、逮捕されたこともあったそうだ。

偉大な歴史の中で、コート・シャロネーズはコート・ドール同様に修道院主導のブドウ栽培の長い歴史を有している。だが良質な場所にブドウが再度植えられるようになったのは比較的最近、20世紀後半になってからのことだ。ブドウは最高のワインを生産できるようになるまで何年もかかる。だから、ようやく今になってコート・シャロネーズの再興が見られると言えるし、それは野心的な生産者たちが多く彼の地に集まることで加速したと考えることもできるだろう。

そんな生産者の1つがブーズロンにあるドメーヌ・AP・ヴィレーヌだ。コート・ドールのサントネイからわずか2マイルほどのところに位置し、ブルゴーニュの中で最も優れたワインを生み出す造り手の1つでもある。そのワインはブルゴーニュの「もう一つの」白ブドウ品種で、完熟が難しいことから長きにわたりシャルドネより質の劣る代替品とみなされてきたアリゴテの単一畑から造られながらも、ブルゴーニュを余すことなく表現するものだ。気候変動のおかげで我々はアリゴテがいかに素晴らしく成熟するかを目の当たりにすることとなり、このドメーヌは特に多くの秀逸なワインを生み出している。ドメーヌの名称(現在はシンプルにドメーヌ・ド・ヴィレーヌに変更された)に含まれるAはオベール・ド・ヴィレーヌを指す。彼はコート・ドールで圧倒的な知名度を誇るドメーヌ・ド・ラ・ロマネ・コンティからつい最近退いたばかりだ。彼のアメリカ人の妻、パメラは長いことブーズロンに住んでいたが、今は引っ越してしまった。2000年からこのドメーヌは彼の甥、ピエール・ド・ブノワが経営している。彼の両親はサンセールのドメーヌ・デュ・ノゼの所有者だ。

上の写真はダ・ヴィンチの黄金比を基にブーズロンの石とワインの澱で「活性化した」地元の水を使って造られた新しいセラーだ。ド・ブノワは自身が愛するアリゴテを「ワインをテイスティングした瞬間、サンセールのソーヴィニヨン・ブランとの類似点を感じた」と表現する。まさにそれほどに酸が高く、食前酒として持ってこいのワインだ。

ただし、コート・シャロネーズの白ワインはほとんどがシャルドネで、赤ワインはピノ・ノワール、つまりコート・ドールと全く同じだ。9月に彼の地を訪問した際、特に私が心を奪われたのはドメーヌ・フイヤ・ジュイヨ(Domaine Feuillat-Juillot)の、全て女性の醸造チームによってつくられる単一畑のシャルドネだ。モンタニの美しく東に面した円形劇場型の畑で生産されるブドウの大半はビュキー近くにある大きな協同組合に販売される。だが、メルキュレの有名なドメーヌ・ミッシェル・ジュイヨで育ったフランソワ・フイヤ・ジュイヨは自身のドメーヌを8ヘクタールから15ヘクタールに拡大し、赤ワイン用ブドウからシャルドネに植え替え、瓶詰まで全てを娘のカミーユと共に行う。

コート・シャロネーズにおいてその所有資産という観点で最大のドメーヌはおそらく、ジヴリにある歴史的なドメーヌ・テナールだろう。彼らはコート・ドールでとてつもなく高い白ワインを生み出す畑、ル・モンラッシェを2番目に広く、ほぼ2ヘクタール所有するという地位を謳歌している。億万長者の実業家、フランソワ・ピノーですらようやく0.04ヘクタール取得できたル・モンラッシェは、10年前に彼が取得した際の価格でも100万ユーロほどだと噂されている。

一方、上質な赤ワインも忘れてはならない。注目したいものの一つは、所有者がフィリップ・パスカル、ワインメーカーがギョーム・マルコ、シトー派のドメーヌ・ド・セリエ・オー・モワンヌを回収して造られた壮麗なグラビティフローを用いた4階建てのワイナリーから造られるワインだ。この建物はジヴリを見下ろす急峻な斜面に建ち、この地区で最高の場所にある畑を誇る。ここは以前の所有者が品質の低いクローンのピノ・ノワールを植えていたため、若木の方が古木よりも品質が高いワインを生み出すという特徴もある。

おそらく、コート・シャロネーズでプルミエ・クリュが恐ろしい勢いで増え続けているのはどこが最良のブドウ畑なのかを明確にしたいという願望もあるのだろう。モンタニィではその60%もの畑がプルミエ・クリュに格付けされており、いくら多くの畑が丘の中腹に位置するとはいえ(トップの画像参照のこと)、やや過剰なように思える。この地域で北部に位置するリュリーとジヴリでの比率(4分の1を下回る)の方が、潜在的な買い手にとっては有用な目安となるだろう。

この地域はまだまだ遷移過程にあるが、ジヴリのヴィニュロン、フランソワ・ランプ(François Lumpp)の娘、アンヌ・セシル(上の写真)が直近のヴィンテージを紹介しながら断言したように、コート・シャロネーズは今、上り調子だ。

お勧めのコート・シャロネーズの生産者
Domaine Belleville, Rully
Domaine du Cellier aux Moines, Givry
Domaine Dureuil-Janthial, Rully
Domaine Faiveley, Mercurey
Domaine Feuillat-Juillot, Montagny
Domaine de la Folie, Rully
P & M Jacqueson, Rully
Domaine Claudie Jobard, Rully
Domaine Bruno Lorenzon, Mercurey
Domaine François Lumpp, Givry
Domaine Jean-Baptiste Ponsot, Rully
Domaine Ragot, Givry
Domaine Suremain, Mercurey
Domaine de Villaine, Bouzeron

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(原文)