ARTICLEワイン記事和訳 本記事は著者であるジャンシス・ロビンソンMWから承諾を得て、
Jancisrobinson.com 掲載の無料記事を翻訳したものです。

026.jpg訳注:この記事はMark Haisma氏の原稿をジャンシスが転載したものですが、有用な情報なのでジャンシス経由でマークに許可をもらい翻訳を掲載しています。彼のウェブサイトは(markhaisma.com)です。

Notice: As most of this article is written by Mark Haisma, vinicuest obtained his permission for this translation. His web site is (markhaisma.com). Special thanks to Jancis and Mark for their help.

ここラングドック西部ではカルカッソンヌからレジーニャン・コルビエール一帯、特にミネルヴォワの小さな村ラ・ルドルトとペピューのブドウ畑に降り注いだ雹の話題で持ちきりだ。そこはミディ運河のほとり、印象的な名前のオンプ(Homps)のすぐ西にあたる。雹はブドウ栽培だけで生計を立てている人たちにとって深刻な被害だが、フランスのこの地域で夏の雹というのは(今のところ)めったにないものだ。ただ、先日Decanter.com に掲載されたアンドリュー・ジェフォードの素晴らしい記事、” the changing science of hail“も参考にしてほしい。雹は最近ではボルドーにも影響を及ぼし始めているようで、先月もメドック北部が被害を受けた。

しかし、雹の被害をどこより最も壊滅的かつ頻繁に受けるのはブルゴーニュのコート・ド・ボーヌだろう。最近も3年連続で夏の雹の被害に苦しんでいる。以下はブルゴーニュの生産者、マーク・ハイスマが書いたこの憂うべき現象と、消費者があまり知ることのない雹がもたらす影響についてのレポートである。

======

ブルゴーニュがまた雹の被害を受けたことはもちろん知っているだろう。

今何ができるか、そして今後どうするかはそれぞれ別の問題だ。ただ残念なことに今できることは多くはないのが現実だ。ブルゴーニュではすでに「クラウド・シーディング」を導入している。これはヨウ化銀、ヨウ化カリウム、またはドライアイス(凍った二酸化炭素のことだ)を雹の可能性のある雲の中に飛行機や大砲のようなもので拡散するというもので、雹となる氷塊ができる前に雨を降らせてしまおうという理論である。雹の程度を軽くしたり、嵐の時間を短縮したり、雹の量を減らしたりサイズを小さくしたりする効果もある。

直近の雹は6月28日で、特にボーヌ、ポマール、ヴォルネイに壊滅的な被害をもたらした。例の大砲は使われたのだが効果があったのかどうか定かではない。嵐の影響を少しは減らしてくれたものと信じたい。しかし、それは作物の多くを失った生産者にとっては慰めにもならない。この地域では昨年も同様の被害が出ていることを忘れてはならない。

もう一つの対策は防雹網(ネッティング)だ。これはAOC法で禁じられおり、それを変えるには何年もかかるだろう(なにしろフランスのお役所仕事だからね)。法律を変えるためにに全ての生産者が団結して立ち上がるというのもありえない。ブルゴーニュは大小さまざまな大きさの畑のパッチワークで成り立っていて、それぞれが様々な人に所有され、お互いに口も利かない人たちもいるからだ。

そして最も重要な点は、網をかけることで貴重な太陽光がブドウに届きにくくなることだ。それだけでこの案は却下され得る。もちろん、十分な日照が得られる国や地域で繊細でエレガントなワインを作るためには悪くない選択肢ではあるのだが。じゃあ、果実だけを守るサイドネッティングはどうだろう。使用許可が下りるかどうかわからないが、太陽光の遮断は少ない。ほかにも問題はありそうだが、少なくとも効果はありそうだ。ただ、残念なことにこれを実施するためにはかなりの投資が必要だ。だから1級や特級畑、あるいはロマネ・コンティのようなドメーヌでしか実行できないだろうし、いずれにしても村中の畑をネッティングするには莫大な資金が要る。それでもすべてを失うよりはましだと僕は思う。

ル・グー・ド・グレル(Le goût de grêle)=雹の味とは

雹の被害がそこで終わってくれればいいのだが、雹対策に関する議論は尽きない。しかし少なくとも、雹の後遺症は大きく現実的な問題である。まず病害の発生率が上がる。傷ついた果実にはカビが生えやすく、乾燥するかきちんと処置をするかしなければ枝中に広がり、さらなる損失を生み出す。

今年伸びて来年木質化する枝(訳注;来年結果母枝となる新梢のこと)は芽と共に傷つく。冬に剪定を慎重に行わず多くの傷ついた枝を残してしまうと2015年の収穫量に影響が出る。

ブドウの木と同じように生産者たちの士気も落ち込んでいる。中には3年連続で被害を受けた生産者もいる。財政的な問題もさることながら、朝起きて破壊されつくしたブドウ畑に向かわなくてはならないのは心に大きな影響を及ぼす。

いずれにしても、すべてが終わったら我々はそのブドウからワインを作らなくてはならない。我々の間でグー・ド・グレル、雹の味と呼ばれる表現がある。雹のため果実が傷つき縮んでしまうことがある。その果実が自然に落ち、残りのブドウが影響を受けず普通に成熟してくれる多くの場合はそれでいいのだが、この小さく収縮した粒は常に自然に落ちてくれるわけではない。これらが選果台で見落とされてしまうと、発酵槽に入る。これが「雹の味」の原因となり、特に傷みの激しい果実が少しでも紛れ込んでしまえばこの香りの発生は避けて通れない。

2012年、僕の処理は完ぺきだった。自分で自分を褒めたい。

2013年は失敗した。僕の2013ヴォルネイはあの忌まわしい味、ワインを飲みこんだ後、喉の奥に嫌なカビ臭さが上がってきた。香りにもその影響は出る。濡れたカーペットやカビの生えた干し草が乾いたあとのようなにおいがして当然飲んでおいしいものではない。つまり、2013年に降った雹の影響がそこまで残るということだ。

ブルゴーニュの闇

さて、すこし波風を立てる話をしよう。

まず、僕のつぶやきを読むのが初めての人のために自己紹介をすると、僕はマイクロ・ネゴシアンだ。畑は持っていない。僕はまじめに働いて美しいブドウを作り出す栽培者からブドウを買っている。彼らとの信頼関係は強く、毎年5軒か6軒の栽培者からブドウを買う。その中でサントネイ、ヴォルネイ、最近植え替えたシャサーニュ・モンラッシェの畑の一部では僕自身も作業をする。ここで収穫したブドウをジュヴレイ・シャンベルタンにある地元の生産者と共有しているワイナリーに持ち込んで僕のワインを作る。畑を買うお金はないけど、なんとか数区画の美しいブドウを確保できている。これがブルゴーニュでワインを作るということだ。ブドウを買い、自分で作る。母なる自然のままに。

大きなネゴシアンの名前を知っている人もいるだろう。でも、大事なのはネゴシアンの質を見分けることだ。中には品質やブドウの由来にあまり気を使っていないネゴシアンもいて、彼らは名前を売ることと素早く利益を回収することにしか興味がないんだ。年によってはどうしうようもない質のワインを作っている。ブルゴーニュの闇の一部だ。ジュヴレイ・シャンベルタンでいっぱいのワイン棚を見て何を選ぶか?この地域に本当に詳しくなければそれは本当に難しい。でも大事なのは生産者についてきちんと知り、もし気に入ったらその生産者にこだわることだ。それが特級畑でも、AOCブルゴーニュでも関係ない。

一方で小さい(中には大きめのもあるけど)ネゴシアンでめちゃくちゃいいワインを作っている人もいる。畑は持っていないけど、素晴らしいワインを作る。僕がやろうとしているのもこれだ。

それからドメーヌって言うだけで信用してはいけない。何の意味もない。ドメーヌレベルでもダメなヤツはいるから。

ブルゴーニュには巨大なバルクワインのマーケットがある。ちゃんとしたコネクションがあってお金を払えばどんなアペラシオンのどんなワインでも買うことができる。それぐらいバルクマーケットは巨大だ。ブドウでも、発酵の終ったワインのバルクでもボトルでも、未完成のワインでも、なんでも買える。でも、それはいいことだろうか?こういう販売はたいていクルティエ、仲買人が行う。僕は幸運にも生産者とよい関係を保っているから、クルティエも使うけど、生産者と直接話すこともできる。

さて、僕のジレンマの話に戻ろう。僕の2013ヴォルネイはうちの名前で売る品質ではなかった。僕の良心はそのワインを捨ててしまえと言うけど、そこまでの金銭的余裕はない。だから僕はそれをバルクマーケットに売る。利益はなく、原価の回収にしかならないけど。

そして残念なことに、そのワインは間違いなく誰かに買われる。ヴォルネイ、特に2013年は大幅にワインが不足している。だからおそらく他のヴォルネイとブレンドされ、どこかで売られるにちがいない。そういうワインを見分ける秘策があればいいのにと思うが、僕にはそういう頭脳も手段もない。

こうなると話はブルゴーニュだらけの棚を見た時の問題に戻る。2013のヴォルネイはどれを買えばいいか?「マークの売り払った失敗作」が混ざっていないと確信できるワインはあるんだろうか?

だからぜひ、生産者を知り、彼らにこだわってほしい。

飲む、それが一番大事

多くの人が僕のワインをいつ飲むべきか、セラーでどれくらい保管できるか聞いてくるが、僕は「飲みたいときがうまいとき」と教えられた一人だ。

ワインによっては瓶詰された時点ですぐに美味しく飲めるものもあるし、時間が必要なものもある。残念ながら(いいことかもしれないが)これは人によっても違う。つまり、僕のイチゴは君のイチゴと違う、ということだ。僕は正直、「フルーツバスケットのような」とか「スパイシーで刺激的な」みたいな理屈っぽい表現が好きではない。もちろん、どんな色でどんな味わいがするのか、お互いに伝え合う必要があって、そのためにはそういう言葉が必要になるのは理解しているけど、会話があまりに理屈っぽくなってくると、僕の目が生気を失っていくのがわかると思う。そういう表現にものすごく長けている人もいて、その中で僕が出会った最高の人はプロじゃなく、ワインを愛する収集家だった。彼らのことは尊敬するけど、僕は彼らとは違う。

自分の仕事を自分で説明するのは危険と背中合わせだ。独立した第三者の意見に耳を傾けるのが一番だと思う。

僕が自分のワインを説明しても、それはただの目安として扱ってほしい。一日の終わりにあなたにぴったりなワインは自然と決まるはずだから。僕は自分のワインの説明はあまり理屈っぽくならないよう気を付けて、そのワインをどう感じて、口に含むとどうなるのかを説明するよう心掛けている。そしてできるだけ短くあるべきだと思っている。

ワインのスタイル
.
僕は自分のワインは若いときから親しみやすく飲みやすいと思っている。ワイン作りではフレッシュさを残すこと、ブドウの香りを大切にすることを常に心がけている。パワーや骨格、無限に長い熟成や濃い色素は僕の趣味じゃない。エレガントさ、楽しさ、生き生きとした感じ、酸、バランスを追及し、でもただ優しいだけじゃなく、ちょっと神経質というか、エッジがあるようなワインが理想だ。

僕にとってワインは生きている。しぼりたての果汁からワインに変わり、それが熟成していくのを見守るものだ。その変化は予測できる場合はそのタイミングで、そうでない場合は自然とその準備ができた時に起こるサイクルだ。そしてそれぞれのワインは性格が違う。特にワインが若いときはその年の状況により大きく影響を受けると僕は思う。最初の冬を越して春になる過程でワインは全く別の生き物になる。ただ、1年目から瓶詰されるワインに何の変化もないと考えるのは間違いだ。ワインは季節のサイクルとそのブドウが育った土の影響と強く結びついている。

最初の冬、樽の中で僕のワインは閉じている。そのあと瓶詰されるとその最初の冬の間にまた閉じてしまう。でも何年か経つとこのサイクルがあまり目立たなくなり、時期による変移から抜け出し、ボトルの中で落ち着いてくる。これが僕の言う熟成であり、もっと単純に言うなら飲み頃である。これは人によって違うし、これこそがワインの素晴らしさなのだ。

飲んだらどんな感じ?

2009 僕はこの年のをたくさん飲みすぎていると思う。でもすごくかわいらしいワインだよ。早熟で飲んで楽しめるワインだ。

2010 クラッシックな年だからもう少し待った方がいい。サンロマンは張りがあって繊細。赤はミネラルがあってタンニンが少し強い。

2011 僕からすると閉じている。ジュヴレイは気難しいし、ACブルゴーニュですら不機嫌な感じ。いつもは魅惑的でグラスの中でどんないじわるにも負けないヴォルネイもやっぱり不機嫌でへそを曲げている。グラスで1杯飲んだ後のボトルをテーブルに置いて数日してから飲んでみたら、へそ曲がりの魔女はどこかに行ってしまい、陽気なお姫様がそこにいた。だから恐れることはない。2011全てが飲み頃じゃないわけではない。

2012 若いうちは2010や2011より親しみやすいと思うけど、僕なら数年はボトルで熟成させるかな。瓶詰めして数か月でワインを評価するのは難しいと思う。ワインは瓶詰することで変化するし、その変化にいつも驚かされる。ワインはその未来像をちらっと見せてくれるけど普通はそのあと閉じてしまうから、瓶詰めして最初の冬が終る頃になって、だいたいの飲み頃が見えてくると思う。

原文